「自分がいいと思うものは人にも勧めたい!」
「ほんと!」
「でも、それ、考えてみると、相手にはすっごい迷惑かもね?」
「ほんと!」
そんな会話をして笑い合っていた友が突然亡くなったという連絡があってから
半年が過ぎた。
コロナで県境をまたぐ移動がはばかられ、まだあいさつに行けていない。
彼女と知り合ったのは、あるイベントを企画していた時だった。
その土地にはつてもなく、何をどうしたらいいか分からずに困っていたとき、ある人が
「力になってくれるかもしれない人がいる。連絡を取ってみたら?」と言ってくれた。
早速教えられた番号に電話をした。
「もしもし」
第一声を聞いたとたんに「あ、この人は親友だ!」と感じた。
後で聞いたら、彼女も同じように思ったのだと言っていた。
何が?って、何となく。
「40歳過ぎてからでも、親友ってできるんだね!」とよく言ったものだった。
当時はまだメールがなかったので、連絡はもっぱら電話。
電話のダイヤルを回そうとすると「リリリリン」と電話が鳴る。彼女からだ。
「今かけようとしてたとこ」
逆に、こちらから電話すると、「あら、不思議。今、電話しようと思ってたとこ」
ということもあった。何回も何回も。
シンクロニシティ、共時性ということばがあると、あとから知った。
「ふしぎだね」「ほんとにね」
好きなものが同じ、キライなものも同じ、大切にしたいことも同じ、
絶対許せないと思うことも同じ。
いろいろなことが、驚くほど似ていて「私たち前世のふたごかもしれないね」と
言って笑ったりした。
人と会うのを、とてもおっくうに思う私だけれど、彼女が住む町の近くまで
行く用事がある時は、かならず彼女のもとを訪ねた。
会った回数はそう多くはないけれど、旅番組などでその町や近辺の町が映ると
「彼女、どうしてるかな?」と思ったものだ。
最近は電話ではなくメールになっていたから、2人で同時に相手のことを
思っていたかどうか、共時性を確かめることはできなかったけれど。
その友が、もういない。もう会えない。
心の中にぽっかり穴があく、というけれど、じわじわとそれを痛感している。
離れていたのに、彼女はいつも心の中にいたんだな、と分かった。
また、会いたいな。
あの世で会えたとして、肉体を持たない魂だけになっていても、すぐに
「あ、前世のふたご、いた!」「また会えたね」ってわかるのかな?
声を使わなくても、言語化しないでも「思い」は通じるのかな?
テレパシーみたいに?
分からないことは、まだまだ、たくさんある。
世界は不思議に満ちている。
何もかも分かろうとせず、分からないままにしておきたい。
分かるべき時がくれば、多分、分かるのだから。