発達多様性、発達の凸凹、発達障害“系”について、いろんなことがどんどん明らかになって来ていて興味深いですね。 なーるほど、そういうことだったのね、と納得します。
私自身は、かなり自己認知が進んでいると自負しています。
名付けるとすればASD“系”、自閉症スペクトラム“系”。あ、この “系”というのは、ナカガワ語です。
身の回りには大好きな色のものが集まっている、とか、聴覚過敏がある、とか、人と会うのが何よりもキライで、会ったとしてもほぼ目を合わせない、とか、自転車を駐輪場に停める時にはなるべく素数の番号を探す、とか、外出するとあたりの看板や貼り紙をすべて頭の中で音声化して読んでいる・・・とか。
これを「こだわり」とか「感覚過敏」と名付けて下さっても、私はいっこうにかまいませんが、でも、たとえば、バラ色のものを売ってなかったらグリーンでもガマンできるし、素数の場所が空いてなければほかの番号で間に合せるし、飛行場やターミナルに行く時には耳栓持参で行く、とか、ガマンしたり対応したりするので、特に「障害」と呼んでいただかなくてもいい、と思っています。
それが“系”の意味です。
学校は「行かせなければならない所だ」とは、ハナから思っていなかった、ということ。
長男が小学1年生、次男が2歳だったころのこと。夫の会社は当時はまだ珍しい土曜日休みだったので、冬になると、子どもたちを土曜日休ませてスキーに行ったことが複数回あります。
後から小学校の担任の先生が「ほかの子が『学校を休んで遊びに行っていいの?』って言うので『それは、お家の人の考え方次第なのよ』と答えておきましたから」と伝えて下さいました。
私は当時、「ありがとうございます。その通りです」としか思わなかったんですが、大半の子たちは、そして親たちは、学校は病気の時とか特別の理由がある時以外は、休んじゃいけないところだ、って思ってたんですね。
最近、不登校の話題で、「学校は行かなくてはいけない所だって思うことが重くて・・・」という発言を多く聞き、「あーらま、そうだったんだ!」と驚いた次第。周回遅れ以上のズレ方。
ほかにも、最近たくさん、自分はこれが当たり前、と思っていたのが、実は当たり前じゃなかった、っていうことを沢山発見して、これでは、周りが迷惑しただろうなぁ、と過去を反省します。
家でも、中学高校でも「自分の思うことは、はっきり言う」「周囲と意見がちがったら議論して、納得して決める」という育てられ方をしたので、おおむねものごとを「はっきり言う」クセがついていて、まあ、これは、一生治らないでしょうね・・・と開き直ってもいます。そういう自分が好き、ですしね。
だいたいね、言ってくれなければ、何を考えているか分からないじゃありませんか、ねぇ? まあ、それでも、空気を読むことも、場合によってはできないわけじゃあないし、協調性はある方だと思うんですけどね。日本人の「標準」からは大幅に偏移しているんでしょうけれど。
スキーの件で、最近、長男に「ねぇねぇ 小学校って遊びに行くからって休んじゃいけない所だったの? あなたはどう思ってたの?」って聞いたら、学校大好き人間だった彼は「休むのはイヤだった。だって、遊びで休んじゃいけないと思ってたから」と、常識的な答えでした。
おお、息子よ、気の毒なことをした!
もっとも、親の方にもいくぶんの言い分はあります。
息子は当時、喘息がとてもひどかったので、雪の中に連れて行くことはお医者さんからの推奨もあった・・・と。
でも、ほんとは、自分たちがスキーに行きたかったのが半分以上だったから、申し開きはできないですね。 同じ分野で仕事をしている友人と、「学校にも(有給休暇みたいに)年間何日までなら休んでもいい」っていう制度があったらラクになれる子もいるかもしれないのにね・・・と話したことでした。