長い冬が終るまえに 春が
夢の匂いのようにはじまっている
落葉樹の森の まばらな透明。
その向うでは 海が やがて落日。
で始まる詩と久しぶりに出会いました。(詩集「固い芽」 青土社 1975より)
「アカシアの大連」の作者であり、詩人、小説家の清岡卓行さんの作品です。
生き続けることがとても大変と思っていた30代、40代の私は、清岡さんの作品のほぼ全部を読みました。
一高の後輩、原口統三の自殺が題材となっている「海の瞳」、「鯨もいる秋の空」、自分を客観視するユーモアに満ちたエッセイ集、詩集「固い芽」「幼い夢と」………
どの本も、どの詩集も大好きでした。
清岡さんのサイトがつくられています。⇒ 清岡卓行の世界
さて、みずみずしい愛をうたった「固い芽」の最後は「誓いの言葉は 未来を語るだろうか」と結ばれています。
私は清岡さんの「固い芽」に、うたとして出会いました。
私が参加していた地元のコーラスの指揮者の杉本龍之先生は作曲家でもあり、清岡さんの詩をいくつか作曲しておられ、「固い芽」もその一つでした。
「ことば」が「音」として立ち上がり、「うた」として自分の心を通して、他者の心にも届き、しみこんでゆく、という体験は、「ことば」も、「ひと」も信じられなくなっていた私にとって、本当に新鮮なものでした。
そこから始まって民族音楽の研究者小泉文夫さんの「呼吸する民族音楽」(青土社) とか、「フィールドワーク 人はなぜ歌をうたうか」(冬樹社)などに興味が広がり、人の声や、鳥の歌など、あれもこれも、不思議でたまらない世界を知りました。
結局、(というのはおこがましいですが)歌は祈りから始まり、ことばも(ある意味)祈りにもなりうる………と考えられるようになったことで、“未来を語り”うるとはとても思えなかった「ことば」を、再び、信じてみようか、と思えるようになったのでしたっけ。
ヒトという動物に与えられている独特な能力「ことば」を大事にしなくてはならない、とも思えるようになりました。
そして、さらに、「ことば」を越えた、大きな力の中で生かされている自分に気づいた、と言いますか………
歌うことがあまりに好きなので、歌に接近したら、現実的な仕事なんかに興味が持てなくなることがよ〜く分かっているので、音楽としての「歌」は、当面自分に封印しています。
が、そろそろ、要請される職を、少しずつ切り捨てそぎ落とし、再度、音楽と歌に接近できないものか、ともくろんでいます。
「仕事してたって、歌うくらいできるでしょ?」と友人には不思議がられますが、一度に一つのことしかできない「特性」(アスペルガーぽい)は、深く集中できるというメリットもありますが、複数のことを並行させられないというデメリットと背中合わせ。ほんとに不便です (=_=)
ま、当面、コーラス時代の練習テープを聴いたり、あまり行ったことのないカラオケに行ったりして、封印を解く準備を始めようかな、なんて。