北海道の田中康雄先生の本を読み直しています。
『支援から共生への道 発達障害の臨床から日常の連携へ』
田中康雄 慶応義塾大学出版会 2009年
最初に読んだ時に貼った付箋がぎっしりです。
どんな本なのか・・・・・
児童精神科医の村田豊久先生が書いておられる「序」を、一部引用します。
・・・・治療者、臨床家としての田中先生の基本的態度は、苦しんでいる人、困っている人を理解しようと、その人々が心のうちを語ってくれるのを待ち、その人が投げかけてくることを徹底して聴き続けるというものである。
田中先生は、それを「聴き続けることから生まれる希望」と述べる。
希望が生まれるのは、子どもやクライエントのみではなく、治療者自身でもある。
治療によって希望が生まれる変化が双方に起こる。希望が双方に起こるような聴き方でなくては、治療ではないということと理解した。(中略)
その域に至るには、治療者が一方的に治療する、与える、教えるというものであってはならない。
治療者もこの社会で、不安を持ち、苦しみながら生活している者であるからには、同等の立場で相互の理解がなくてはならない、という。
このことともも関連するのだが、治療は一人の治療者だけで行えるものではなく、プロフェッショナルやスペシャリストとの深い相互理解に根ざされた連携が絶対必要だと説く。
連携は相互の支えあい、尊重があって初めて可能になる。
この社会に住む人はみな孤独感と対峙しながら生活しているし、不安を抱えて生きていることを思うと、連携こそがすべての治療や教育の基本であろう。(後略)
そして、今朝(2013年4月13日)の朝日新聞朝刊Be の 映画監督の小栗康平さんに関する記事の中の「哀切と痛切」ということばが目に留まりました。
小栗さんが デビュー作「泥の河」を撮るに際し、先輩監督の浦山桐郎監督に贈られたことばは≪哀切であることは誰でも撮れる。それが痛切であるかどうかだよ≫だったと。
小栗さんは「あるポジションが自分にあって、そこから見て可哀想だというのが哀切だが、痛切は、自分が開いてに置き換えられ、そっちでもあり得た、と思う場所から生まれてくる感情」と考えているそうです。
≪向こうにもなり得たけれど、現実にはこっちだった≫
自分の責任ではなく、 たまたま「こっち」だったり、たまたま「向こう」だったり。
私も、障害のあるお子さんやその親ごさんとのお付き合いの中で、いつも、こういう感覚を持ちます。
私がそちら側にいることもあり得たのに、たまたまこっち側にいる・・・と。
その連続線上なのか、相手のことを「当事者」、自分たちのことを「支援者」と名づけ、疑わないような風潮には、なんともいえない違和感を感じてしまいます。
一方的な「支援」ではなく「同時代を共に生きる」「対等な仲間」としてとらえるような視点を持っていたいものです。
田中先生の本は、そんな私にとって「ガッテン!! ガッテン!」の本です。
田中先生は、北海道大学を辞して、今は札幌で「こころとそだちのクリニック むすびめ」を開いておられます。