「『にもかかわらず、人生にイエスと言う』」ことは、できるのか。
これは、生きることの意味を見出せず、社会への違和感をかかえ、悩み多き青春を送った私の人生の前半の大きな課題でした。
上記のことばは、ナチスの収容所を生き延びた精神科医、ビクトール・フランクルの本(「それでも人生にイエスと言う」)の中にあります。
人間はあらゆることにもかかわらず――困窮と死にもかかわらず、身体的心理的な病気の苦悩にもかかわらず、また強制収容所の運命の下にあったとしても――人生にイエスと言うことができるのです。(山田邦男・松田美佳訳、春秋社)
このことばをめぐって、2011年4月11日付けの朝日新聞に記事が載っています。「自殺対策支援センター ライフリンク」代表の清水康之さんにかかわるものとして、です。
記事「それでも 人生にイエスと言う」
本当にいろいろなことがあって、いろいろな人と出会えて、いろいろな応援を得て、今は、「生命はもともとイエスから始まっている・・・・・らしい」と思えるようになりました。
障害のある人たちや、親子さんたちの生き方から学ばせてもらったことも、助けになっています。
「これで行こう!」と思い定めることができたのは、40代の半ばを過ぎてからでしたが。
とはいえ、痛みや病気にとても弱い私なので、病気や障害に直面した時に、「にも関わらず イエスと言」えるかどうか、自信はありません。
おりしも、40年来の友人が、ガンで入院しています。
私は「私には、知り合いはたくさんいるけど、友だちは少ししかいない」と考える人間ですが、その人は「友だち」の一人です。
痛みの合間に、病状をきわめて客観的に、おもしろおかしく伝える「闘病記」を、親しい人たちに送ってきてくれています。毎回、「クスッ」と笑えます。
生還したら、ひさびさにみんなで集まりたいね、と言っています。
「にもかかわらず 笑う」。
これは、ドイツ語のユーモアの定義だそうです。「死生学」「死の哲学」「死への準備教育」を牽引する、上智大学のアルフォンス・デーケン教授が、おっしゃることです。 デーケン先生の講演録が、ネットにありました。