沈黙は金 分別の無言
イテテのテって言ってます
二、三か月前から肩が痛くて、イテテテテ。五十肩だろうと勝手に判断してお医者さんには行かず自分で経過観察中。
それにしても、いつのまに、そんなに時がたったんだろう、あと数年で60歳になるなんて。気持ちはST(言語聴覚士)の養成所を卒業してこの職についた20代半ばの時のままなのに。
定年のない「非常勤・自営業」とはいえ、あと何年仕事できるのかしら。年々、物忘れがひどくなってきてる。いや、そうじゃない、人の顔と名前を覚えられないとか、用事をケロリと忘れるのは若いころからだったっけ。
まっ、いいか。ご縁のある間は仕事して、必要がなくなったら、おのずと、はい、さようなら、ってことになるのだろうから、と、最後は思考停止できるようになったのは、やっぱり年をとったおかげ、亀の甲より年の功。ありがたい。
若いときには、きちんと考え、ちゃんとした答えを出したかった。相手をも厳しく問い詰め、はっきりした返事をもらいたかった。あいまいさに我慢がならなかった。たくさんの情報を集めた上で正しく判断したかったから。
そうやって周到に立てた計画、出した答えのとおりに運んだことは少なくて、むしろ、予想外のことから、大きな枝葉が広がっています。人生、予測不能。
できないこと と できること
人生の残りを数える年になりながら、まだできていないこと、ほんとはできたらいいことを数えあげると、もう大変。たとえば早寝早起き、整理整頓、計画的な生活、約束厳守、適度な運動、持続する意思、不言実行、社交的であること、などなど。とほほほほ。
一方、できるようになったこともたくさんあります。おっほん。
いい加減、人さまに対する適度な親切と適度な冷淡、言いたいことを言わずに我慢すること、知っていても知らなかったふりをすること、いやなこともうれしいこともどんどん忘れる、大層なことを考えずに自分にできることだけをしようと思えるようになったこと、「そういう見方もあるけど、そうじゃない見方もあるかもしれない」って軽々に判断しなくなったこと、などなど。
できないことのほうに関しては、すでに努力することをあきらめております。今回の人生ではムリさ、とか言って。
以前にも書いたことがあるかもしれませんが「平安の祈り」をご存じでしょうか。「ラインホールド・ニーバーの祈り」とも呼ばれて、アルコール依存症の方たちの自助グループ活動の折などに唱和されると聞きます。
「神様 私にお与え下さい
変えられないものを受け入れる落ち着きを
変えられるものを変える勇気を そして、その2つを見分ける賢さを」
というものです。
変えられるものを変えようとする。それが人間にとって、一番ムリのない行き方かな、って思います。何が変えられて何が変えられないのか、見分けることが実は一番難しいのでしょうけど。
分別の無言
トシを取るに伴って身につけた能力のうち、われながら貴重だと思うのは「言いたいことがあっても、言わないでいる能力」です。
18年4月中旬の朝日新聞一面「おりおりに」に紹介された短歌に目がとまりました。「分別の無言」ということばにとても惹かれたのです。