ここは中川信子のホームページです。ことばの発達や障害について、
また、言語聴覚士に関連するさまざまな情報を配信していく予定です。

「そらとも」は「この空のもと、いたるところに、志を同じくする友あり」という意味です。
疲れて、ひとりぽっちと思えるときには、空を見あげ、胸いっぱいに元気を補給しましょう。
その曲がり角の先には、きっと新しい出会いと、すばらしいできごとが待っています。

連休前から、ものを捨てています。えい!えい!
母の住む実家と、急遽引っ越した息子のアパートのものを、えい!えい!

捨てて、減らして、すっきりするのは気分がいい反面、何で、こんなにたくさん物があるんだろう、とウンザリします。

他人の家のものは、いらないものばかり! みたいに見えるのに、その足でわが家に帰って見回すと、やっぱり同じくらいいっぱい物があり、しかも、「使うかも」とか「もらった物だから」とか「旅行先で買ったんだ」とか、「賞味期限、切れたばっかりだからまだ食べられる、明日食べる」とか何とか言って、捨てられない物が多いです。

「片付けられない女たち」という名著?がありますが、ほんと、思い当たることばかり。でも、この機運を逃すと、次はいつのことになるかわからないので、自分の家でも、捨てたり、整理したりに取り組みつつあります。

片付いた部屋、物を探し回らないでいい整頓状態、清潔で落ち着く部屋、というポジティブイメージを描いてがんばります (=_=)

実は、ここだけの話、GW中に来客がある、という切羽詰った事情もありまして。

外圧がないとなかなか動けないのが人間ですね・・・・。

狛江は小さな町です。
「何て読むの?」「何県?」て聞かれることもたびたび。
そんな狛江を大好きな人たちがたくさんいるのが、誇りです。
私も、です。

狛江に根ざした活動を、と、行ってきた「サポート狛江」の活動も、2年前に一般社団法人になったのを契機に、いろいろな方面に広がりつつあります。
主力メンバーはあまり変わらないので、結果的にハードワークになっています。

でも、やってて楽しいし、結果が出るのが面白い。

そんなノリで、続いてきた「むいからで遊ぼう」も6回目を数えます。
「むいから」とは「麦から」のこと。
狛江の取り壊された旧家を保存・移築した古民家園を
「むいから民家園」と呼んでいます。
鑑賞するだけの民家園ではなく、実際に上がりこんで遊んだり、昼寝したり、いろりで火をたいたり、かまどで料理したり、いろいろな使い方をされて、親しまれています。

その古民家園を会場に、乳幼児さんから小学校低学年くらいのお子さんまでを対象に遊ぼう、ついでに、心配ごとがあったら相談に乗りますという「敷居の低い」「出前相談」を合わせて行ってきたのが「むいからで遊ぼう」です。

市と、むいから民家園との共催事業として、また、市内の各所の方たちが協力してくださり、毎回1000人近い親子連れで賑わいます。
「狛江のどこに、こんなに、赤ちゃんや子どもがいるんだ!!」と、やってる自分たちで目を白黒させています。

今年は5月18日に開催です。
チラシは「サポート狛江」のHPに載せました。 ←クリックして下さい

今回の追加の目玉は、「ふくしえほん あいとぴあ」という狛江のユニークな取り組みが今年で20年を迎えたのを記念して行うことになった展示です。

「サポート狛江」のHPにも書きました。

      ↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ふくしえほん あいとぴあ」は、「であい ふれあい ささえあい」を合言葉に、狛江の福祉を進めようという一連の取り組みの中で企画されました。
市内幼稚園・保育園の年長さん(5歳児さん)全員に、福祉をテーマにしたシートを一ヶ月に一枚配布し、12ヶ月分をファイルすると一冊のえほんになるというユニークな企画です。

最初にこのえほんを受け取った人は、今年25歳になっている計算です。

赤ちゃんを連れて「むいからで遊ぼう」にきてくれる親ごさんの中に、一期生がいるかもしれない、というのが楽しみです。

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 この「えほん」の取り組みについては、最初から関わっておられる阪野貢先生による文章がネット上にあります。
就学前の子どもたちに贈る狛江の福祉教育―ふくしえほん「あいとぴあ」20年のあゆみ

そんなわけで、古民家に興味ある方、ミニSLに乗りたい方、ふくしえほんを見たい方、どうぞ、狛江の「むいから民家園」に来て下さい。

気に入ったら、狛江に移住してきてくださいな(笑

いろんなことが次々起きて、アタフタしているうちに4月も半ばになりました。
ようやく、少し周りを見回す余裕ができたので、久しぶりに、釧路の日置真世さんのブログ「新サロン日記」をのぞいてみました。

そしたら、あるわ、あるわ、宝のことばが。親の会の運営について、なのですが、人生にも、組織の運営にも通じることばかり。日置さんに聞けば「どうぞ」って言ってくれるにちがいないので、了解を得る前ですが、一部引用を。

〜〜〜〜〜〜〜〜4月14日分  ここから〜〜〜〜〜〜〜〜〜

長く続いていたことを変えるというのはそれ相当にエネルギーがかかるし、軋轢も生むだろうし、やってみないとわからないこともあり、勇気もいるとは思いますが、それらを覚悟のうえ、変えていかなければ組織としての先はありません。

先延ばしにしても、課題が勝手に解決されることもありませんし、かえってできることもできなくなったり、課題が大きくなることの方が多いように思います。

そんなときにおそらく、重要になってくるのは初心に帰ることだろうし、根本に戻ることだろうと思います。

 親の会ができた時の趣旨があり、何のために自分たちはどんな役割を果たすために親の会の活動をするのか?

そこに改めて戻る必要があるのです。

会の活動をうまくやるために、それを目的として動くわけではなく、子どもたちの幸せのために自分たちにできることをやろういうスタートがあったわけで、その活動がいつしか苦しいことや無理をすることが多くなり、会の存続が目的になってしまったのなら、結果として子どもたちの幸せに実はつながっていなかった…なんてことにもなりかねません。

だから、課題を感じたときに「そもそも」に戻って、自分たちの立ち位置や身の丈や覚悟や社会との位置関係を今一度見直していくことが実は常に重要だったりするよなぁと痛感します。

まだ本番も終わっていなくて、これから佳境が待っているのに、私たちはすでに終わった後のお疲れ様を考えているのでした。

でも、実はそれもとっても大事で無理なく周囲にも賛同される秘訣は「楽しくやる」こと。楽しいと自然に人が集まってくるし、何より自分たちも楽になります。

ましてや、仕事じゃなく本当に手弁当のボランティア活動の親の会ですから、まずまず楽しくないとダメなのは当然だと私は思います。

  〜〜〜〜〜〜〜〜引用 ここまで〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

会議って、たいていは、何かを決めるためにやるのだし、効率よくすすめることが必要ですけど、でも、少なくとも、福祉や教育や地域に関わる会合では「あの会議に行くと、あの人に会える」とか「いい話を聞けるだろう」とか、楽しみがあることが参加の励みになりますよね。

手前味噌ですが、狛江で開かれている「地域での一貫した療育システム構築に向けての検討プロジェクトチーム」は、そういう会になっているなァ、って思います。

座長の市川宏伸先生の存在もあって、当事者(保護者)を含めて、楽しく進んでいます。真っ向から否定したり反対したりする人はいないので、自分の意見を出しやすく、毎回「へぇ〜 知らなかった」という発見があり、委員のみんなで少しでも「これから」を良いものにしたいという思いが感じられます。

今後、徐々にまとめの方向に向かうので、事務局である福祉サービス支援室スタッフの力量が頼りですが、やっと、長年、みんなで願い続けたことが実現に向かうのかな〜〜と楽しみです。

なお、4月13日分ブログ記事も読みでがありました〜〜〜

〜〜〜〜〜〜〜〜4月13日記事 ここから〜〜〜〜〜〜

人と人との会話は目的と求めるものによっていくつかの種類があるのではないかという説です。

私たちが整理したのは以下の5種類。

①雑談 (他愛のない話題を取りとめもなく話す。相手に求めるものは相槌、適度な同意)

②相談 (どうしたらよいかわからないときに相手に判断や評価を仰ぐ、できれば頼りたい。相手に求めるものはアドバイスや方向性、指示、教示など解答)

③情談 (自分の感情を伝えたい、ぶつけたい、吐き出したい。相手に求めるものは受け入れてもらうこと、同調してもらうこと。感情の交流、共有化)

④フィバ談 (自分の考えていることや感じていることの意味や価値を確認したい、振り返りたい。相手に求めるものは感想、違った視点からの意見、客観的視点や意味づけ 自分を資源化するため材料)

⑤ほうれん談 (報告、連絡などの事務的なインフォメーション。相手に求めるものは把握と了解のみ)

私たちの会話はこの5つの違った意味合いのものを無意識的に使い分けていて、同じ言葉で発信をしていても、実は目的や相手に求めることが違うこともあるんじゃないか?ということになりました。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜引用ここまで〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

なーるほど・・・・。

北海道の田中康雄先生の本を読み直しています。

『支援から共生への道  発達障害の臨床から日常の連携へ』

      田中康雄 慶応義塾大学出版会   2009年

最初に読んだ時に貼った付箋がぎっしりです。
どんな本なのか・・・・・
児童精神科医の村田豊久先生が書いておられる「序」を、一部引用します。


・・・・治療者、臨床家としての田中先生の基本的態度は、苦しんでいる人、困っている人を理解しようと、その人々が心のうちを語ってくれるのを待ち、その人が投げかけてくることを徹底して聴き続けるというものである。

田中先生は、それを「聴き続けることから生まれる希望」と述べる。
希望が生まれるのは、子どもやクライエントのみではなく、治療者自身でもある。
治療によって希望が生まれる変化が双方に起こる。希望が双方に起こるような聴き方でなくては、治療ではないということと理解した。(中略) 
その域に至るには、治療者が一方的に治療する、与える、教えるというものであってはならない。
治療者もこの社会で、不安を持ち、苦しみながら生活している者であるからには、同等の立場で相互の理解がなくてはならない、という。
このことともも関連するのだが、治療は一人の治療者だけで行えるものではなく、プロフェッショナルやスペシャリストとの深い相互理解に根ざされた連携が絶対必要だと説く。
連携は相互の支えあい、尊重があって初めて可能になる。
この社会に住む人はみな孤独感と対峙しながら生活しているし、不安を抱えて生きていることを思うと、連携こそがすべての治療や教育の基本であろう。
(後略) 

そして、今朝(2013年4月13日)の朝日新聞朝刊Be の 映画監督の小栗康平さんに関する記事の中の「哀切と痛切」ということばが目に留まりました。

小栗さんが デビュー作「泥の河」を撮るに際し、先輩監督の浦山桐郎監督に贈られたことばは≪哀切であることは誰でも撮れる。それが痛切であるかどうかだよ≫だったと。

小栗さんはあるポジションが自分にあって、そこから見て可哀想だというのが哀切だが、痛切は、自分が開いてに置き換えられ、そっちでもあり得た、と思う場所から生まれてくる感情と考えているそうです。

≪向こうにもなり得たけれど、現実にはこっちだった≫ 
自分の責任ではなく、 たまたま「こっち」だったり、たまたま「向こう」だったり。

私も、障害のあるお子さんやその親ごさんとのお付き合いの中で、いつも、こういう感覚を持ちます。
私がそちら側にいることもあり得たのに、たまたまこっち側にいる・・・と。

その連続線上なのか、相手のことを「当事者」、自分たちのことを「支援者」と名づけ、疑わないような風潮には、なんともいえない違和感を感じてしまいます。


一方的な「支援」ではなく「同時代を共に生きる」「対等な仲間」としてとらえるような視点を持っていたいものです。
田中先生の本は、そんな私にとって「ガッテン!! ガッテン!」の本です。

田中先生は、北海道大学を辞して、今は札幌で「こころとそだちのクリニック むすびめ」を開いておられます。

LCスケール.jpg

2008年に刊行された『LCスケール』(言語・コミュニケーション発達スケール)は信頼できる言語・コミュニケーションの検査として、ことばの教室、特別支援学級・学校の先生やSTを中心に広く活用されています。。

今回、発達をプロフィール化するための「領域別まとめシート」追加と絵図版の一部修正を加えた増補版が刊行されました。
旧版からの課題内容や手続き、標準化データの変更はないので、従来の『LCスケール』も引き続き問題なく利用できます。

なお、記録用紙は、学苑社のHPからダウンロードできることになったそうです。

詳細は学苑社の紹介ページをどうぞ。

言語能力だけではなく、共同注意に着目してコミュニケーションの力を知ることのできる貴重なスケールです。もっともっと広がってくれることを願っています。

NHK教育テレビの夜8時からの「ハートネットTV」
4月の特集は「発達障害の子どもとともに」です。

ごらんになって下さい。

4月1日(月) 親を支える
4月2日(火) 育ちを支える
4月3日(水) おとなになった私たち
4月8日(月) Q&A
4月15日(月) 君が教えてくれた大切なことー歌手・うすいまさと
4月25日(木) みなさんの声にこたえて

再放送は翌週同じ曜日の午後1時5分から

http://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/calendar/2013-04/01.html

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「そらとも」は「この空のもと、いたるところに、志を同じくする友あり」という意味です。

疲れて、ひとりぽっちと思えるときには、空を見あげ、胸いっぱいに元気を補給しましょう。
その曲がり角の先には、きっと新しい出会いと、すばらしいできごとが待っています。

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