私は「民」の立場ではありつつも、行政と近いところで仕事をしています。一市民は、「一点突破」が必要な時だけ役所に行き、カウンター越しに「一点突破」を試みればいいんですが、行政側は、同時並行的に何十も、ヘタすると何百もの仕事を持続的に処理し続けなければならないのが、辛いところだよな〜〜と、いつも思っています。
つい、最近も、そんな思いをするできごとがありました。
そしたら、タイミングよく、北海道・釧路の日置真世さんの「新 サロン日記」に「そう!そう!」と思えるような書き込みがありました。
日置さんの了解を得て、転載しました。(一部省略、改行などの変更加えました)
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新サロン日記 2月6日記事
今日は午後に困りごとワークショップの5回目を開催しました。
昨年の10月から釧路のパーソナル・サポート・サービスモデル事業でつながった方たちとの情報共有や学び合いの場としてスタートして、毎月ランダム開催ではありますが、続けてきました。
ここ3回は事例検討をしています。
正直なところ、事例検討って言葉は私は好きではありません。
だって、事例っていうのはつまり「ある人が真剣に悩んだり、困ったりしていることを解決するお手伝いの実践プロセス」であり、それについて検討することはある人の真剣な人生について扱うことなのに、「事例」とか言っちゃう軽い感じが好きではないのです。
人の人生を「事例」とか言われちゃったら、自分なら嫌だなぁって思います。
とか何とか、通常使っているからついつい今日も当たり前に使ってしまいましたが、今度から別の呼び名にしたいとひそかに考えています。
私の感覚としては、事例検討とはその人の人生の悩みごとや困りごとについてとか、困ってる人のことをあれこれ検討するのではなく、その人に向き合っている「自分たちの支援」について振り返り、検討することだと思っています。
いくら、あれこれと困っている人のことをどんな人だとか、こんな人だとか、ここが課題だとか、こんなことがあったとか、こういうところがあるとか知ったり、探ったり、語ったりしたとしても、それがその人にとって何かしら役に立つようなことにつながらないと何の意味もありません。
その人について知ることが目的ではないのです。
目的はあくまでも、その人が少しでも本当に望むような人生に近づくことができること。
そのために支援者と言う自分たちが何ができるのか?を考えることです。
それが、ついつい「事例検討」なんて言っちゃうから、「この困った人をどうしようか」とか「この困っている状態を何とかしてあげよう」とかいう発想になりがちです。
そうですね、事例検討改めて「支援向上会議」とか「支援振り返り会」とかそんな呼び名の方がいいと思います。 実際にやってみると、そうした視点で検討が進むと、非常に有意義な感じがします。
今日は、支援のプロセスのうち支援者が関わりを持つ中でとらえたアセスメント(見立て)について、相談者にフィードバックする(伝える)ということを重点的に考える機会を設けたのですが、これが実に実際のところできていないというのか、タブー視されていることが改めて分かりました。
私は常々、自分が感じていること、その方と関わっていて気付いたことについて、その方が次に進むために必要だと思えることについては、必ず伝えるようにしています。
もっとも、私はその人が自分自身について知る、他者から見てどう思うのか?という客観的な見方を得るということがその人にとって有益にならないことはないと思っています。
知らないことがありすぎて、教えてもらえず、遠まわしだったり、教えるのではなく怒られたり、一方的な評価を与えられたりする経験ばかりで、自分自身について他者の目を通した時にどう見えるのか?どう感じさせるのか?という貴重な情報を得られることができずにいることが不利益になったり、自立を妨げていたりすることがあまりにも多くあります。
だからこそ、支援者が見立てたその人についての情報をその人のわかる言葉、表現で伝えることがとても重要だと思っています。
そう言うと、よく言われるのは「そんなこと言えません」「言いづらいです」「失礼だと思われる」などなど。
実は、そう思うのは私たち支援者の都合と価値観なのです。
自分自身が表面的にいい支援者でいたいから人が嫌がであろうことは言いたくないとか、怒られたらどうしようとか思ったり、失礼だとか思うのは自分自身のその物事に対する否定的な価値がそこに含まれるから思うだけの話です。
私は意地悪をしたいとか、評価をしたいとか、自分が上に立ちたいとか、ダメなことに気付いてほしいとか、現状をわからせたいとか、危機感を持ってほしいとか、そんな勝手な期待やこちらの意向ではなく、その人を応援することに具体的に必要だから伝えるのです。
そうやって伝えることで、実際のところ関係が壊れてしまったり、自分自身で失敗したと思ったことはないですし、むしろそのプロセスをしないことがその先を進めることの妨げになることの方が圧倒的に多いです。
それはきっと尊重の基本姿勢ではないかと私は思っています。
誠心誠意、自分の感じることを伝える。
それは、支援というプロセスで相手と協働でこの社会を創造する仲間として対等に関わりたいと願う私自身の精一杯のメッセージです。
とは言っても、伝えることがとても難しいということもよくわかっています。
だからこそ、日ごろの練習がとても大事なんだと思います。
なかなか、この伝えることについて学ぶ機会がないんですよね。
逆に誤学習をする機会が多かったりして。
そのためにも、事例検討あらため「支援振り返り会」はいろいろな意味で重要なのでした。 =・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・= 私も「ケース会議」とか、「事例検討」とかいうことばが大きらいです。
自分を「支援者」と表現することもほとんどしないと思います。
だって「支援者」なんかのつもりは毛頭ないですから。
応援団の一員だったり、「前途に幸多かれと祈る人」、だったりはしますけれど。
最近、相談時間を終えて、じゃあ3ヵ月後にまた、という別れ方をするときに、親ごさんや、先生方に「健闘を祈ります」って言うことが多いです。
または、「共に、がんばりましょう」とも。
「がんばってね」と「ようすを見ましょう」は、自分に対して禁句にしています。